バンドマンはどこへ消えた?

マツミヤカズトのGEEKコラム

どうもどうも。
どぅ〜もどぅ〜もどぅ〜も。

「のうがきたれお」こと、GEEK! GEEK! GEEK! のマツミヤカズトです。
ちょっとした豆知識ですが、毛量が多めです。

さて、僕とちくげ は(ちくげが断固として主張するところの)「30前後」の年齢ですが、まぁ、いうたらおっさんですから、普段話す相手もだいたいおっさんです。
すると、近頃特に「最近の若い人たちはバンドをやりたがらない」とか「元気がない」的な話を、よく聞くようになってきました。

無責任に聞こえるかもしれませんが、僕は「そらまぁ・・・減るよなぁ・・・」と思っています。
別にバンドカルチャーに限ったことではなく、特に人口減少時代の日本において、多くの旧来の文化圏においてこれからの時代はコアプレイヤー人口が「減る」のが当たり前であり、僕はそれはむしろ健全なことじゃないかと思います。理由は後で。

しかし例えばclubGRINDHOUSEの長谷川さんは「若者たち」というイベントを興して、これから先の徳島での音楽シーンを新しくつくっていこうと精力的に動いておられます。決して腐ることなく。

今回のコラムは、サーキットイベント「若者たち」で僕が感じたことを交えて、減りつつあるらしい「バンドマン」とそれを取り巻く今という時代について考えてみました。

ちなみに今回は「若いバンド(マン)が減っている」ということを起点として考えていますが、本当に若いバンドが減っているのかどうか、参照できる確かなデータがあるわけではありません。
「そういう話をすごくよく聞くようになったなぁ」というところがスタート地点ですので、そもそも実は全然減ってないのかもしれません。あしからず。

さて、参りましょうか。
お察しの通り、長いです。

引き返してください。

「若者」はどこへ消えた?

ちくげとstudio TORIGOROの森脇さんやclub GRINDHOUSE長谷川さんとの対談でも、そんな話になったりしました。

トリゴロ森脇さんと(脱線しまくりの)深い話 (4/4)
ちくげがいろんな人に会ってお話する 「ちくげを解剖する」シリーズ第二弾! 2018年12月某日。 GEEK! GEEK! GEEK! がいつもお世話になっているスタジオトリゴロ にて、オーナー兼レコーディングエンジニアの森脇大佑さんに...
「若者たち」へ 〜 club GRINDHOUSE店長・長谷川さんと、徳島と音楽と若者の話 〜 (3/3)
2019年4月28日(日)に迫った徳島のサーキットイベント「若者たち」。 今回の対談では主催のclub GRINDHOUSE店長・長谷川洋星さんに、なぜ「若者たち」を立ち上げたのか、そしてそれにかける思いを深く聞いてきました。 「徳島」...

プレイヤー自身や楽器屋さん、スタジオ経営者さん、ライブハウス経営者さんの視点から見れば当然、バンドカルチャーはかつてのように盛り上がって欲しいわけですから

「もっとみんなバンドやってほしいな」
「以前はあんなにいっぱいバンドがいたのに」
「今時の若い人は何をやってるんだろう?」

と思う/心配するのは当然だろうと思いますし、「無理無理!」などと言う気は毛頭ありません。
自分の愛する文化を守っていこうとするのは当然だと思いますし、商売にしている人にとっては死活問題です。ドライな言い方をすればそれは、広い意味で、自分にとって利益があるわけですからそうなってほしいのは当たり前です。

でもそれは例えば、僕のSNSのタイムラインにも時々流れてくる、野球やサッカーの関係者やファンも同じかもしれません。
その「中」にいる古参の人たちは、かつての最盛期の規模を基準に物事を考えてしまいがちに見えます。

余談ですが、東京ヴェルディのファンが、ファンの少なさを嘆いているのを目にした時はいささか衝撃的でした。
ヴェルディなんて、Jリーグ発足当時は押しも押されもせぬ一番人気チームだったのに(歳がばれる)

「これくらいの規模の人数が動く」ことがその業界のイメージになっていると、プレイヤーやファンが減っていく流れは非常にきついことだろうと思います。

中には、「過激派」と言ってもいいのかもしれませんが
「若い奴らはなんでバンドやらないんだ!!」と怒り出す人もいます。
「若者死んだんか?」とか「元気ない!!」とか。

待て待て、と。
それって、「若者の〇〇離れ」とか言って、「今時の若い奴にはギラギラした欲がない!俺らの頃は・・・」とか言い出すファッキンなバブルおじさんと同じです。

〇〇世代というレッテル

とはいえ、「若者」に対して「元気がない」とか「何を考えてるのかわからない」という印象を持つのは、ぶっちゃけ太古の昔からある、いわゆる「ジェネレーションギャップあるある」ではなかろうかと思います。
例えば、団塊の世代のすぐ後に若者だった(青春時代を送った)世代は当時「シラケ世代」と呼ばれていたそうです。郷ひろみとか山口百恵もこの世代なんですって。今思うと「はぁ?」です。

「ゆとり世代」だの「さとり世代」だのと、人間は違う世代の人々について理解が及ばなくなると「〇〇世代」というレッテルを貼って自分との距離をはかり、安心しようとします。
自分が時代の流れから置いていかれつつあることを「若者のせい」もしくは「年寄りのせい」にする心理は、なんとも情けないものです。

ただし、一応そんなおじさんおばさんたちを庇っておくと、現代という時代の「変化量」は確かに人類の歴史の中でもかなり大きな部類で、革命的と言って良いくらいのものだとは思います。10年前と今でも全く違った「常識」が通用しています。
上の世代の人の「変化についていけない具合」は、歴史上繰り返されてきたものよりは程度が大きいのかもしれません。

僕ですか?全くついていけていません。
誰ですかビリーアイリッシュって。

・・・すごいねあの子(小声)

その「皮算用」はそもそも合ってんのか?

自分たちの街には大体これくらいの数のバンドがあって、バンドマンがいて・・・というイメージは、バンドマンやインディーズ音楽に関わる職業の方であればなんとなくあると思います。
イベントをやればこれくらいの動員が期待できて、CDをプレスすればこれくらい売れて・・・という感じで。

でもそれが、そもそも間違っていたら、もしくは極めて「一時的」なものだったら、その「皮算用」はハナから意味がない。それどころか邪魔なわけです。
バンドに限らず、僕たちが考えている「昔から続いてる普通の状態」なんて、実は全然意味がないかもしれない。

フィルムで写真を撮るか

今や誰もがスマートフォンを持っていて、高級な一眼レフカメラもほとんどがデジタル化されています。
現在において撮影される写真のほとんどは「データ」として保存され、フィルムを使う人はよっぽどこだわりのある愛好家か、アーティストなどに限られます。紙に印刷する機会も以前に比べると随分減りました。(最近は「写ルンです」がちょっとした再ブームみたいですが)

当然、街の写真屋さん、現像屋さんはものすごい勢いで時代の波に飲まれ、多くが廃業に追いやられてきました。

さて、あなたが家族や親類に写真屋さんや現像屋さんのいない「一般人」だとして、この廃業の波をどう考えるでしょうか?
ほとんどの人は、同情しこそすれ「そりゃしょうがないんじゃないかな」と思わないでしょうか。

スマホはとてつもなく便利です。いつでも気が向いたときに撮影し(気に入らなければ削除し)手のひらに何百枚という写真を納めておくことができます。
デジカメがあれば、写真を撮るときに一枚一枚失敗を恐れることはありません。上手く撮れたものをパソコンのデスクトップに大きく表示すれば、多くの人はそれで満足します。

こんな便利なものが広く一般に普及してしまえば、写真屋さん現像屋さんの職業が窮地に追いやられることは容易に想像できてしまいますし、誰にもそれを止めることはできません。
写真屋さんが「若者のフィルムばなれ」を嘆いても、iPhoneを開発したappleを批判しても、同情はするけれど仕方ないわけです。

さて、僕は何もここで、「時代遅れは死ね!!」などと残酷なことを言いたいわけではありません。

僕が考えたいのは
じゃあ、現代を生きる我々にとっては少し前まで当たり前だった、「街の写真屋さん」とか「フィルムを持っていって現像してもらう」といった情景は、いつから当たり前だったのか?
ということです。

僕たちの「社会的通念」は本当にずっとあるものか?ということ。

「専業主婦」という社会通念

もう一つ例を。

「専業主婦」という言葉で想像される人物像は、日本国中で共有されている「社会通念」だろうと思います。

この日本という国では「昔」から「専業主婦/主婦」とされる女性像が根付いていて、一方で現在という時代は
女性が社会進出することによって、『女は結婚して主婦になるものだ』という常識がぶっ壊されている
という風に見えるかもしれません。

しかしながら、実は「専業主婦」という女性像ができたのはめちゃくちゃ最近のことで高度経済成長期、1950年代に生まれた、たった1〜2世代の長さしか通用していない、新しい概念です。
「就職活動」も「サラリーマン」も、「郊外に一戸建てを買って子供は二人と犬一匹」っていう家庭像も、家にテレビがあるのも電話があるのもごくごく最近(大正〜昭和)にできた「普通」です。

ドラマでもなんでも、江戸や明治の女性を思い浮かべたときに「専業主婦」はイメージしにくいはずです。日本の歴史のほとんどの期間において、女性は当然のように家庭の外でも働いていたのです。

もっと言えば「誰もが自由に恋愛ができる」のも最近の話です。
おじいちゃんおばあちゃん世代に話を聞くと、お見合いが「普通」だったりします。
ってかうちに至っては両親もお見合いです。

「昔は好きな女の子の家に電話したら親父が出たりしてさぁ、苦労したんだよ。今時の若者はLINEでしょ?いいよなぁ楽で。甘やかされてるなぁ」
とかいうムカつくおじさんはよくいますが、悪いけど、各家庭に電話がある状況っていうのはそのおじさんの親世代より以前では「普通」ではないわけです。

その「常識」や「社会通念」っていうのは意外と「特殊解」だったり「一時的なもの」だったりするのです。

変化しつづけてきただけちゃうん

街の写真屋さんやフィルムの話に戻ります。

記念日に街の写真屋さんで家族写真を撮るだとか、自分でカメラを持っていて、フィルムを買ってきて、撮って、現像に出す、というような行動が一般人でも可能になったのも、お分かりの通り実は意外と最近のことです。

「写真館」みたいなものが日本の歴史上に登場したのは幕末のことですし、一般家庭にカメラが普及したのはもっと後、戦後〜高度経済成長期以降のことです。

「歴史が浅いからその文化を守る必要はない」などと言いたいのではありません。

歴史ある地下足袋屋さんでも、タバコ屋さんでも同じです。
現代において刀を作る「刀匠」が江戸時代よりも少ないことに疑問を抱く人はいないと思います。

問題はその「規模感」の設定です。
文化も仕事も、時代に翻弄されて常に変化しつづけるはずですが、多くの場合「最盛期」を基準にその規模感が形成されてしまいます。
でもよくよく考えてみれば、写真屋さんやタバコ屋さんという職業だってそれが始まった当時は「新しい職業」であり、ひょっとしたら別の職業から仕事を奪ったかもしれません。
「あの頃はよかった」と言って、たまたまお客さんが多かった時代を懐かしんでいても仕方ない。社会は変化し続けているのです。

この数十年くらいがたまたま調子よかっただけなんじゃない?と思います。みんながイケイケの、高度経済成長〜バブルのご褒美タイムだったんじゃないだろうか。

バンドカルチャーの話をすれば、めちゃくちゃ端的にいうと
「たまたまこの20〜30年くらい、異常なバンドブームだっただけじゃない?」と思ってしまうわけです、申し訳ないけれど。
バンドブームの時代の経済規模感で作ってしまったバンド市場が今や回らなくなってしまうのも、仕方ない部分があるんじゃなかろうか、と。

ただし何度も言いますが「時代遅れは死ね!!」などと思っているわけではありませんし、誰が悪いわけでもありません。関係者の皆様、怒らないでね。

打開策はあるはずです。それはまた後で。

あぁ、そういえば、今まさに「時代の変化に取り残された」某巨大お笑い企業が話題ですね。
もしヤクザな商売をしてても、若手お笑い芸人が泥水をすすっていても、そんな話が漏れないようにするのは今までは簡単だったわけです。

なぜなら情報が「民主化」されていなかったから。

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