「いい演奏」ってなんなんだ

マツミヤカズトのGEEKコラム

久しぶりのコラムになってしまいました。
油断してました。

我々GEEK! GEEK! GEEK!も2018年10月の初ライブ以来、何度かライブを経験して徐々にその形が固まってきたような気がします。

しかし、ライブで演奏をする時はついつい「ミスをするまいぞ」「上手に弾くぞ」「今夜こそあの子と一発きめるぞ」と思うがあまり、ものすごく緊張してしまって余計にミスを多発してしまったりするものです。

前身のbandneon時代を含め、これまでたくさんのバンドさんや弾き語りの方と対バンしてきましたが、ものすごく素敵な演奏をする人ほど得てして楽屋で極度に緊張していたり、ライブ後に「あそこめっちゃミスりました・・・」とか言って落ち込んでいることが多い気がします。

それは、とっても素敵なことだな、と思います。
謙虚であり、自分に対して意地悪なくらいに反省しようとする姿勢を見ると、応援したくもなるってもんです。
(逆に言うと、楽屋で対バンの演奏も見ずにダラダラとくだらない話をしている出演者ってのは得てして・・・・)

実際、リスナーとして僕はその「ミス」はわかっていたりもしますので「え~、全然わかりませんでしたよ」とは言わないようにしています。嘘なんで。
その代わり「そんなん知らんけど、いい演奏でしたよ/いいギター弾いてましたよ」と言うようにしています。

今回の話は自分も含めた「いい演奏」のために緊張してしまう人を励ます内容になっているような気がします、がそれは書き終えてみないとわからない・・・。
かといって「ミスを恐れるな!君は上手い!自信を持て!」とかそういうスポ根的な話ではなく

完璧に、なんのミスもなくライブ演奏することは本当に大事か?という話です。

とはいえ、アホみたいなこと言いますが、演奏が上手いことは、もうホントに、物凄く、大事です。

僕もコーラスで少し歌わせてもらったり、ギターを弾いたりしますが、もっともっと上手くなりたいです。もうほんとライブやレコーディングのたびに身投げしたくなります。

やんなっちゃう。

でも僕が考えている「いい演奏」と、皆が考えている「いい演奏」は違うかもしれません。特に、これから先の時代においては「上手い」とか「演奏力」ってものがなんなのかは、変わっていくのかもしれないと思っています。

心に残る演奏とは

 

演奏技術を蔑ろにする人たち

中には

技術なんかいらねぇ!俺たちはエモーションで!アツい気持ちで演奏すんだ!!エモエモ!

みたいなこと言って演奏技術の鍛錬を蔑ろにする人もいるかもしれません。ってか結構います。
そーいう人たちに言いたいのは

あなたのそのエモーションを、聴く人にできるだけちゃんと伝えるために、あなたの感情を載せるために「演奏技術」が必要なんですよ。

ということです。

演奏技術よりも気持ちだ!という「エモーション派」の論理では、おそらく
「感情をむき出しにした、ヘタクソでも心のこもった演奏が人の心をつかむんだ!」
ということなんですかね?しらんけど。

しかし残念ながら、本当に卓越した技術を持つ演奏者は、その場に応じて適切な、お客さんの心にちょうど届く、ちょうどいいヘタクソさで演奏することができます。

ヘタクソさっていうとものすごい語弊があるっすね。
ちょうどいい適切な「不確実さ・ブレ」を作ることができます。

例えば超優秀なドラマーは、もちろん完璧に正確なbpmで演奏することはできるでしょう。
しかし、超優秀であるがゆえに、曲が盛り上がるところでほんのちょっとだけbpmを上げて、あえて気持ちのいいブレを作ることができます。

「エモーション派」の人がたま~に、偶然生み出せるかもしれない「気持ちのいいブレ」を、卓越した演奏者は意図して作り出すことができるのです。

わかってて作るブレと、わかってなくて勝手に生まれるブレには雲泥の差があるはずです。

技術を誇示したいだけの人たち

一方で、こう言っちゃ失礼なんですけど「上手だけど…なぁ…」ということって、ありますよね。

なんかすっげーピロピロとギターソロ弾いてらっしゃったけど、「だから?」みたいな。
正確なプレイなのかもしれないけど、なんかすげえつまんない。
フィルイン入れすぎてわけわからんわ!とか。

すごく練習をしたんだろうなぁ、上手だなぁ、とは思います。
しかしどんなにすごいテクニックでも、楽曲によりそう気がなく、ただ技術を見せつけたい、自分の弾きたいフレーズを弾いたるぜ、みたいなマスターベーション演奏って、すげぇ伝わってしまうものです。

こーいう人たちも、なにかを履き違えているような気がします。
お客さんはその場、その瞬間にしか体験できない「音楽」を楽しみに来ているのです。

技術や正確さを誇示したいのならば「速弾き大会」や「bpm120保持力選手権」や「ジミーペイジと全く同じ音でソロ弾けたら優勝トーナメント」といった、「スポーツ」に参加するべきなんです。

スポーツとはすなわち、評価軸とルールが共有された中でその卓越度、正確さを競うものです。
走るのが早ければ勝ち、中心を射貫けたら勝ち、時間内にボールを敵陣ゴールまで多く蹴り込めた方が勝ち、という価値基準を共有した上で行われるものです。

余談ですが、たまに「クリケット」などの知らないスポーツの試合を見てみると、意味不明すぎて笑えてきます。
なにをどうすれば成功なのか、今の行為はなんだったんだ、とか突っ込み出すとたまらなくなってきます。その意味不明さを逆手に取ったのが「ごっつええ感じ」のコント「実業団選手権大会」です。
検索すればどこかで見られるかも・・・。

 

話を戻します。

音楽、ひいては芸術は、技術を競うスポーツではないですよね。

あくまで言っておきたいのは、技術を向上させようと日々練習を重ねている人を否定したいのではない、ということです。心の底から尊敬します。

ただし彼らの作る音楽やフレーズ、音色が「音楽」という芸術に属するものなのであれば、その日々の鍛錬の「目的」は、「表現力」であるべきではなかろうかということです。

速さや、正確さ、あるいは知識量は確かにものすごく大切ですし必要不可欠ですが、それを目的化し出した途端に、芸術という概念から大きく足を踏み外してしまいます。

芸術における「正確さ」とは

ところで、現代において、「正確さ」や「再現性」というものの値打ちは、大きく揺らぎつつあります。
というかその手の価値はもうとっくにAI・コンピュータの専売特許です。

エクセルに入れた数値の計算を、古い会社では人間が検算する、なんていう笑い話もありますが、卓越した暗算の達人がミスをすることがあってもSiriは絶対にたとえ何桁の計算でも一瞬で、しかも間違うことはありません。

これから先の時代、「正確さ」や「再現性」に価値を置く仕事のほとんどがAIに奪われてしまうと言われています。

残されるのは何か?

・・・まぁその辺の議論はホリエモンさんや落合陽一さんにお任せしましょう(逃げます!)

 

完璧な「再現」の意義

写真のようにとてつもなくリアルな絵というのが時々インターネット上に流れてきます。一度は見たことがあるのではないでしょうか。

絵と写真を並べて「見分けがつかな~~い!」とか言うてるやつです。

確かにそれは素晴らしい技術だと思います。別に「くだらね~」と思っているわけではありません。

例えばジュースの缶。その輪郭や色合いを完全に再現する描画技術には眼を見張るものがあります。

但しそれが「芸術作品」あるいは「表現」として評価されるべきものかといえば、いささか疑問を抱いてしまいます。

ってか、写真のようにリアルな絵なら、写真でいいんじゃね?

と、僕は思ってしまいます。

ちなみに、写実主義・(スーパー)リアリズムという絵画/芸術ジャンルもありますが、「写真のようにリアル」と「写実主義」は全く違います。

写実主義というのは、芸術家が「自分というフィルター」を通して見た「あるがままの光景」を描くことであって、「誰が見てもそっくりそのまま」を描くことではありません。

モチーフ選び、構図選び、彩色、全てに関して、何をカンバスに写し取ったか、そこに「芸術家という個人」が介入します。

「完璧に同じ」

では例えば、今は亡き美空ひばりや忌野清志郎といったものすごく特徴的な声と、全く同じ声が出せる人物がいたとして、そして本人の歌を全く同じように歌い上げたとして、ファンはそれを聞きたいと思うのでしょうか。

まぁ、思うかな?笑

でも、それならば、たとえ声が全く違っても、新しい歌い手の「人間」がしっかり入った新しい「川の流れのように」や「スローバラード」が聞きたいと僕は思います。

奥田民生/スローバラード(RCサクセションカバー)

 

録音なんてできない大昔なら話は別ですけど、現代なら本人の声はいくらでも音源が残ってるんだし。

ちなみに「思い出」の話をしているのではないことは、誤解のないように言っておきます。

美空ひばりさんの息子さんが、亡くなった母と全く同じ声で歌うモノマネ芸人さんの歌を聞いて泣くってのは当然ありえます。

今話しているのは「作品」や「表現」として、「全く同じ」ことにどれくらい価値があるんだろう?ということです。

特に、何度も言うように、いくらでも記録が残っていて再現可能な時代において、です。

例えば、Queenが再結成するにあたって新しく選ばれたボーカルは、「フレディ・マーキュリーの再来」と言われているFun.というバンドのネイト・ルイスや世界中にいる「そっくりさん」ではなく、フレディ・マーキュリーとは全く違った魅力を持ったアダム・ランバートでした。

 

ドラえもんの声が随分前に変わりましたが、あれがもし、大山のぶ代さんにそっくりな声だったら、初めはいいかもしれませんが人々は徐々にその声に対して「違和感」を訴え始めたのではないかと思います。

「極めて似ているもの」は「極めて違うもの」です。

それなら、ルパン三世の声を再現したクリカンさんはどうなのか?
はっきり言って、山田康夫さんのルパンと栗田貫一さんのルパンは違うと思います。
山田康夫さんが急逝されてすぐ、声優交代後初のルパン三世の声にはものすごく違和感がありました。

栗田貫一さん自身、「嫌で嫌で仕方なかった」と語っておられます。

「気持ち悪くて仕方なかった」ルパンの声を担当する栗田貫一の苦悩
1971年から放送されているアニメ『ルパン三世』。当初、主人公・ルパンの声を担当していた声優・山田康雄さんが急逝したため、1995年に公開された劇場映画『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』から、栗...

なぜならば、「極めて似ている」からです。似ているからこそ、クリカンさんは「違和感」と「新しい表現」の間で苦しまれたのでしょう。
しかしそれを「クリカン・ルパン」として、栗田さんは完成させました。

ここまでの「そっくりさん」が、本人と交代してうまくいった例を僕は他に知りません。

志村正彦さん亡き後のフジファブリックにおいて、彼の穴を埋めるでもなく、「新しいフジファブリック」を残されたメンバーが必死で作り出したからこそ、今やフジファブリックは志村さんの生前同様かそれ以上の活躍を実現しているのではないでしょうか。

 

なんのために「演奏」するのか

こんなに技術が進んでも、我々は自分の手で楽器を演奏し、歌を歌おうとします。
そもそもそれは一体なぜなんでしょうか?ミスするかもしんないのにね。

音楽において、ある意味で「正確に再現された」もののひとつが、カラオケの伴奏音源です。DAMとか、JOYOUNDとか、そういうやつのことです。

あれは当然、機械によってリズムから音程からすべて制御された、完璧な音源(のはず)です。
しかしカラオケの伴奏で「いいグルーヴだな」と思ったことはないはずです。

ダフトパンクというテクノポップユニットがいます。
彼らは2013年のアルバム「ランダム・アクセス・メモリーズ」で、あえて生バンドによる録音を行い、人間にしか出せないその微妙なズレ・ブレを盛り込みました。

 

それまで打ち込みや加工された録音を用いた非の打ち所のない音源を多くつくってきた彼らですから、このアルバムは音楽業界において大きな話題となりました。

グルーヴ・・・問題はそこにあります。

ものすごく逆説的に聞こえるかもしれませんがあえて極論しますと、我々は

「不確実な演奏をするために生演奏をする」

と言えるのではないかと思います。

完全無比な、完璧な演奏がいいのならば、何度も何度も演奏してレコーディングを仕上げたCDをかけてアテ振りをすればいいのではないでしょうか。

あるいは音源と全く同じ演奏をライブハウスで聴いて、それはどれくらい価値のある体験になるのでしょうか?(まぁ実際にはそれは不可能なんですが)

その状況にあわせて、意図した通りにその日において最高の演奏を作ることができるのが芸術において真の意味での「上手い」ということだと思います。

これがスポーツや工業製品などとは違う、芸術という分野にしか発生しない、非常に難しい価値です。

気持ちのいい不確実さ・ブレのことを人は「グルーヴ」と言うのだろうと思います。

どんなに歌声の音域が広かろうが、ギターで早弾きができようが、ドラマーのbpmが正確だろうが、もちろんすごいですが、「すごい」だけです。
いやいや、当然価値はあります。表現の幅が広がるし、「再現芸術」である音楽において「再現力」として必須の技術です。

僕だってギターは上手くなりたいです。「表現したいことを表現する技術」が欲しいからです。

しかしレディーガガが、あるいはAKB48やジャニーズがなぜあれほど人気があるのはわかりませんが、一つだけ言えることは、彼ら彼女らは「ただ演奏/歌唱が上手い」わけでは全くないということです。

あるいはyoutubeを検索すればいくらでもでてきます。「上手いだけ」の人が。

演者の「非交換可能」性

僕が仕事でも音楽活動でも、すべての創作活動においてずっと抱き続けている信念みたいなものがあって、それは

機械のように「交換可能」な、「誰でもいい人間」にはならない、ということです。

実を言うとbandneon(活動休止中)時代、僕はあまりギターで目立とうとはしておりませんでした。
ソロを弾かせてもらうこともありましたが、どちらかといえば目立つフレーズはもう一人のギターのバンに弾いてもらって、僕はちくげ(ベース)と軍曹(ドラム)の方を向いて楽曲全体のグルーヴを作ることに注力していたように思います。

しかしそれでも、bandneonというバンドの独特の「音の雰囲気」をリズム隊の二人とともに作り出しているという自負がありました。

そして、ちくげ、僕、zueという最小限のメンバーでGEEK!GEEK!GEEK! を始めてすぐに思い当たって青ざめたことがあります。

生のウワモノ楽器、おれのギターだけやんけ…!

我々にはドラムがおらず、基本的に同期シーケンス(録音済みのトラック)を流しながらそれに合わせてキーボードや効果音を出すパッド、ベース、ギターを演奏します。

ちくげの溢れ出る音楽的欲求を満たすためには無数の楽器が必要であり、メンバーが何人いても足りないわけで、ライブのたびにそんな人数を集めているわけにはいかないのです。

極端に卑下するならば、「高度なカラオケ」です。
すなわち、CDを流して僕達はアテ振り口パクをすることも可能なわけです。

でもおそらく、我々は今後も自分のパートは自分で生演奏をすると思います。

我々は、このプロジェクト「GEEK! GEEK! GEEK!」において常に、どのパートを「録音した音源」とし、どのパートを「生で演奏しなければならない」かを考え続けているような気がします。

やはりそれは、交換できない個人としての我々三人の演奏がなければ、ライブをお客さんに見てもらう意味がないと考えるからです。

人が見たいのは「完璧」ではなく「人間」

この手のことを考えると、僕はいつも同じ結論に達してしまいます。

それは、「人間は結局、人間を求めるものなんだなぁ」ということです。

今年のM-1グランプリで、審査員をつとめたサンドウィッチマンの富澤さんが出演者の漫才師に言っていたのが「人間が見えるともっとよくなる」「今は漫才マシーンみたいだ」といった、芸そのもの以上に大事な「人間味」に対する評価でした。

究極の話、もしAIロボットのペッパーを2台並べて完璧にプログラミングされた漫才をやらせたとして、そんなの面白くもなんともないと思います。

音楽ライブでも同じで、ペッパーを4台並べて完璧なバンド演奏をさせて、なんの意味があるでしょう。

人間が芸術に求めるのは、その表現者にしかできない不確定性、すなわち「ブレ」や「クセ」や「人間味」なのだと思います。

そして僕たちは僕たちの演奏以上に、これまで重ねてきた人生とストーリーを、お客さんに見てもらいたいと思っています。
見て、聞いて、好きになるか嫌いになるかはあなた次第ですが。

というわけで、

頼むけぇライブ見にきてくれぇ。

お客さんの人生と、我々の人生が、我々の演奏のブレたグルーヴを介して共鳴することにこそ、音楽における大きな意義があると思っています。

 

ああ、本題を忘れてました。

ライブのたびにミスを恐れて緊張しすぎてしまうあなた!
こう考えてみてください。

お客さんはあなたの、今日しか起こらないミスを見にきているのかもよ?笑

 

最後に、究極に「人間」で歌う、僕が何度見ても泣いてしまう、本当の「いい演奏」を紹介します。

ここまで7000字も使って書いてきたことが、これを見れば一発でわかります。
それが、音楽の/芸術の力です

ヒュー・ジャックマンも感涙!映画『グレイテスト・ショーマン』「This Is Me」ワークショップセッションの様子

 

P.S.

2018年9月より活動を始めてまだ3ヶ月ですが、たくさんの方に楽曲を聴いていただき、本当にありがたいと思っています。

またこのコラムやちくげの対談など、たくさんの方が僕らの言葉に耳を傾けてくださっていることもとても嬉しく思います。

来年、いよいよ僕たちの活動は本番です。ヤッバイこと、いっぱいやっていきます。
ヤッバイほどめんどくさいコラムをいっぱい書きます。

2019年もよろしくお願いいたします!

よいお年を。

 

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