今回は「芸術の原価」あるいは「価値ってなんなんだ」ということについて考えました。
長いです。すみません。
ツイッター界隈はものすごく流れが早いので、もう鎮火してしまいましたが、つい先週はある問題が話題になっていました。
(乗り遅れました)
ハンドメイド作家の作品に対して、「ヒルナンデス」等のテレビで知った「原価」を持ち出して値下げを要求する人が少なからずいるそうな。「ヒルナンデス ハンドメイド」等のワードで検索すれば関連記事がいろいろ出てきますのでよかったら見てみてください。
いろんな人がこれに対して意見を述べています。
「モノの値段は、作業費や運搬費やら、全部が入っているものなのに」とか
「それを作る技術を習得するまでにどれだけの時間と資金がかかったと思っているんだ」とか。
どの意見もごもっともだと思います。
もし僕がこういう人間にもし出会ったら(ていうかよくいますが)、答えはシンプルで「じゃあ自分でやればいいよバーカ」です。
その服も、手に持っているiPhoneも、家も、電車も、原価に比して価格が高いと思うのならば、自分で作ればいいですよね。
問答としてはこれで終わりです。(まぁそもそもこんな問答が通じないような人たちなんだろうとは思いますが)
そのものの価値がわからなければ買わなきゃいいし、作れると思うなら自分で作ればいい。
作家に要求することではありません。
そしてこの問題は「原価ゼロ」で作品を生み出す我々にとっては本当に恐ろしいことです。
ミュージシャン、小説家、イラストレーター、デザイナー、パフォーマー、学者・・・全員、「原価」はゼロです。
僕は確定申告で「仕入れ」や「外注費」がないことに毎回自分で驚きます。原価ゼロの権化です。
どうもこんにちは。私が原価ゼロの権化です。
この「原価信仰」の人たちの論理でいけば、もしCDを買うならそのCDの「コンパクトディスク」としての物質の値段のみに金を出すということになります。まぁそこまで極端な人もいないか(笑)
でも、Spotifyやyoutubeで無料で音楽が聴ける時代です。そりゃCDは売れないですよね。
ただ、少なくない人数がこういうことを言っちゃう世間というのは「バーカ!!」で終わらせられる問題でもない気がします。
かく言う僕自身、家電を買うとなれば価格.comで執拗に最安値を調べますし、huluやAmazon Primeで公開されている映画ならわざわざDVDを借りたり買ったりしようとは思いません。
日本は貧しい国になっちゃったのかもしれません。
あるいは、音楽でも記事でも画像でも、あまりにも無料で手に入るものが増え、あらゆるものの値段を「価格.com」で比べることができるようになった今「ものの価値」のものさしがもう、ぐっちゃぐちゃなのかもしれません。
作家の朝井リョウさんが「武道館」という作品の中でこんな風に書いていたのが印象に残っています。
(主人公の愛子は、youtubeで様々な動画を手当たり次第に鑑賞してきました)
突然、愛子の目の前に、がらんどうの検索フォームが現れた。
(中略)
これまで手軽に観てきたあらゆるアイドルの動画が、自分を中心にして大きな円を描くように並んでいるイメージ。すべてが自分から等距離の位置にあり、腕を伸ばして一回転すれば、全ての動画に触ることができてしまうイメージ。
──つまり、この中で一番、が、ない。
youtubeであらゆるコンテンツが無料で観られるようになり、それに慣れきってしまったがあまり、自分が好きな、自分にとって価値のあるものを選び取ることが困難になってしまった時代を端的に表現していると思います。
自分にとって価値があると思うものには自分で値段を決めてでも払うことで手に入れることが重要な時代になってきているのではないでしょうか。
市場価格を度外視して買う「コレクター」「蒐集家」という人たちがいますが彼らの行動にはなにかヒントがある気がします。彼らは一体何を買っているのか?それについては後で考えます。
「価値」とは
経済学的に言えば「価値」とは、「何で交換できるか」です。
1万円で買えるものは「1万円と交換できるだけの価値」を持っています。(もしくは多くの人からそう見なされている)
貨幣のない時代なら、例えば「小麦1kg」は「魚10匹」と「等価交換」が成立したかもしれません。
大学生のころの友人で、ややこしいことを言いたがる安藤君という男がいたのですが、ある日突然
「1万円に1万円の価値はない」と言い出しました。
「1万円が9千円で買えるなら買うけど、1万円出して買おうとは思わんやろ。だから、1万円には1万円分の価値はない」と。
「いやそれは、意味ないしめんどいからやらんだけやろ」と即論破しましたが、彼の言うことは少しだけ「価値」の真理に触れている気がします。
人が何かを買うとき、「これはこのくらいの価値やな」と見なした「価値」よりも、それと交換できる金額が「同じ」か「それ以下」の場合にのみ、人はお金を出してそれを「交換」します。
多くの人が「これくらいの価値」とみなす「値段」がそのタイミングにおけるその商品の「相場」です。
プレミアがついたり、税金対策等で相場よりも高いものにあえて金を出す場合もありますが。
社会的分業
ちょっと変な話をしますが「価値」について考えるならば「社会的分業」について考えるべきだと思います。
文明化以前、まだ「社会」というものがなかった地球では、人間はそれぞれが自分の生活をまかなっていく必要がありました。
自分で衣服や家、道具をつくり、自分で食料を取り、排泄すればそれを処理します。無人島に漂着すれば現代でもそうなります。ゲームの「マインクラフト」みたいなことですね。
それが、人が集まって「社会」ができ始めたころ
「あいつ魚とるのうまいし、魚をとるのはあいつに任せたほうがよくね?」となります。
「おれは家つくるの好きだし、みんなの家作ってやるよ。だからおれの食料とかは頼むね」と。
これが「社会的分業」もしくは「職業」の始まりです。
まず、「原価がこれくらいだからこれくらいで売れ」という人はこれがわかっていません。
「自分で作ればこれくらいの値段でできるはずのモノ」を「専門性を持った職人」に作ってもらうのだから、「原価」で買えるわけがないですよね。
自分で作れたとしても多大な手間がかかるだろう、例えばイヤリングを、知識も豊富な職人に作ってもらって、その間に自分は自分の専門性をもった仕事でお金を稼いでいるのです。
それぞれの人間が得意な仕事をして相互に恩恵をもたらすことで、全員が自分の生活のためだけに活動する原始時代よりも効率的に「価値」をつくることができるのが「社会」です。
「じゃあてめえでやってみろよ」と多くのハンドメイド作家が怒っているのもこの文脈の延長線上にあると思います。
とまぁ、「原価問題」はこういうことで一旦おいとくとして、我々にとって重要なのは「原価ゼロの仕事の価値」についてです。
人類が社会を作っていく中で、呪術師や宗教家、哲学者、画家や音楽家といった「原価のない」「どれくらい価値があるのかわかりにくい」職業も登場してきました。
しかし彼らの職業は当座の生活に必要なものではありません。なくったって人々は生きていけます。
果たしてそれに誰が、いくらの値段をつけるんでしょうか?
芸術の「価値」
実はそれはものすごく単純な話で、自分にとって「意味があるか」か「意味がないか」でしかないような気がします。
ある宗教家、例えばルターや親鸞に救われた人はいくらでも財産を寄進したいと思うかもしれません。
全く科学的に裏付けのない呪術師でも、それで病が治ると信じることができるのなら全財産を払ってしまうかも。
もし今、(生きている)ビートルズのコンサートを見られるなら、僕は全財産を払います。(全く財産はありません)
一方で「自分にとって意味がなければ」それらは全くの無価値になってしまいます。
いくら頑張ったとて、端的に言ってしまえば「意味があると信じさせる/認めさせる」ことができなければ、ゼロです。
予算(原価)100億円で作った映画だからと言って、人々が楽しめなければ100億円は回収できません。
ん〜〜〜、すっげぇ当たり前。
ピカソの有名な逸話があります。
ある日、ピカソがマーケットを歩いていると、手に一枚の紙を持った見知らぬ女性がこう話しかけてきたそうです。
「ピカソさん、私あなたの大ファンなんです。この紙に一つ絵を描いてくれませんか?」
ピカソは彼女に微笑み、たった30秒ほどで小さいながらも美しい絵を描きました。そして、彼女へと手渡しこう続けます。
「この絵の価格は、100万ドルです」
女性は驚きました。
「ピカソさん、だってこの絵を描くのにたったの『30秒』しかかかっていないのですよ?」
ピカソは笑います。
「30年と30秒ですよ」
かっけぇ。
ピカソは自分の絵に価値(多くの人による意味付け・価値づけ)があることを当然知っています。
マジで100万ドルで売れるかもしれません。
あるいは、誰もが知っている「裸の大将」というテレビドラマも「芸術の価値」について考える上で象徴的です。
素性を隠して放浪する画家、山下清は、ただの変なおじさんとして田舎の優しい人々と交流します。
彼が描く絵は上手だけれど、田舎の人々にはその価値がわかりませんので、山下清に対して普通に接します。
ところがラストシーンで、ちょっと博学な人が出てきて「おめぇこりゃ、山下清先生の絵でねぇか!!」とか言い出して、「な、なんだってー!!!」と大騒ぎ。その頃には山下清画伯はすでに次の旅に出ています。
野に咲く〜〜〜花のように〜〜〜〜♪
別にその田舎の人々が悪いわけではなく、「わからない/しらない人」にとっては、芸術は一気に無価値になるのだということがよくわかります。
人によって「意味付け」されなければ、生活において必須ではない芸術や思想といった職業には価値は生まれないのです。
かといって逆説的ながら、世の中の人全員にわかってもらおうなどとすると、芸術として意味をなしません。
これは、芸術に関わる全ての人がわかっておくべきことなんだろうと思います。
マルセル・デュシャンの皮肉
マルセル・デュシャンという芸術家がいます。20世紀の美術に最も影響を与えたとされる現代美術の先駆者です。
彼を知らないひとでも、代表作である「泉」(1917年)という作品については見たことがあるかもしれません。
男性用小便器に「R.Mutt」という、架空の人物の署名をしただけの、物議醸しまくりのあれです。
この作品は2004年に、500人の有名なアーティストや美術史家によって「20世紀美術で最も影響を与えた作品」として選ばれました。
これが「芸術」か?と思う人も多いと思います。しかし「芸術の価値」を考える上でこれほど示唆に富んだ作品はありません。
「泉」の意図
超絶ものすごく簡単に言いますが、この作品の意図するところは
「価値なんて自分で考えろ」です。
手が込んでいるから、オリジナルだからアートなのか?有名な画家のサインが書いてあるから価値があるのか?
手作業で作られた、一個しかない絵だから高いのか?
という、それまでの「作家性」による芸術への強烈な皮肉そのもの。
という「芸術」です。
その辺にある、ただの小便器に、誰かもわからないサインを書いて飾っています。
つまり、「芸術は芸術家が自分で苦労して作り上げるもの!」という常識すらもせせら笑っている。
という「芸術をひっくり返すという芸術」です。
「は!?これアートですけど?何か?」です。
現代アートは、常識を覆し、価値を反転させ、発見することに大きな意義があります。
その根本の根本を100年も前にやられてしまっているわけです。彼以降の現代アート作家は随分困ったらしいですよ・・・。
さて、なぜデュシャンの話をしだしたかと言いますと、彼の投げかけているメッセージは現代でも大いに考えるべきことだと思うからです。
このコラムの本来のテーマである「原価」の話をすれば当然原価はゼロです。
意味がわからない人からすれば、謎の小便器なんて原価でも買いたくないでしょう。しかしこの作品はわかる人からすれば何億出してもいいくらい価値があるものになっています。
(ていうか本物は現存していません)
当コラム「なぜ、ありきたりな歌詞を書いてはいけないのか?」でも言いましたが、芸術というのは「すげぇ」と思えば「すげぇ」ものです。言い換えれば、自分が価値を見出せば価値があるし、見出せなければゼロです。
つまり、芸術というものは鑑賞者に「価値」を探してもらわなければならない宿命にあるのです。
現代のマルセル・デュシャン
実は、僕はある人物を「現代のマルセル・デュシャン」だと思っています。
それはみなさんご存知のみうらじゅん氏です。
生粋のコレクターだったり、「マイブーム」や「ゆるキャラ」といった言葉を作った人としても有名ですね。
先日、川崎市で行われた「みうらじゅんフェス!」という展示会に足を運びました。
そこには「いやげもの」や「カスハガ」「カニパン」「冷マ」など、もうめんどいので説明しませんが、彼が異常な執念で蒐集してきたものたちがとんでもない物量でずらりと並んでいました。
(まだまだあるそうで、選んでもってきた「いいやつ」だけが並んでいたそうです)
果たして彼が何をしているのか?というと、彼は「新しい概念」を作っているのだと思います。
例えば、日本中に散在していた、「役所とかが作ったビミョーなかわいさのゆるいオリジナルキャラクター」という事象に対して、彼が「ゆるキャラ」という新しいくくりを与えました。ジャンルの名前を作られたことによって、世の中に「枠」が理解された途端「ゆるキャラブーム」は日本中を巻き込むブームになりました。
彼自身一応エッセイスト・イラストレーターとして活動していますが、そんなことより
「彼自身が作ったものではないものに名前をつけて、概念を作り出す」ことに成功している点で私は彼が「現代のマルセル・デュシャン」に見えるわけです。
つまりマルセル・デュシャンもみうらじゅんも、「どうでもいいもの」に対して自分の考えや感覚に基づいて「概念」を付与しているのです。既存の「作家性」に紐づいた「だれかが決めた価値」に真っ向から対立しています。
みうらじゅんがここに至ったのは彼が究極の「コレクター」であるということと大きく関連していると思います。
全然欲しくないものでも「今これを集めているから」という意味づけがあるために、それがいくらだろうと「買わなければならない」と思うのだとか。
その本末転倒さが彼の逆説的な思想の魅力の一端を担っているような気がします。
「コレクター」は何を買っているのか
自分自身、全く「コレクター精神」みたいなものがありません。
好きなアーティスト、例えばビートルズやオアシスがなにか限定モノを発売したとして、特に心がざわつくこともありません。
スポーツチームや握手券付きアイドルのファンになったこともなければ、カードゲームにはまったこともないため、何かを「集めたい」という発想がそもそもなく、むしろ過剰なまでの断捨離をしてしまって後々困るタイプです。
ぶっちゃけ、コレクターが羨ましいと思うことがあります。
あるものが「欲しい」と思った時に彼らが見ているのは、自分にとってどれくらいそのものが欲しいか、どれくらい価値があるかということであって、絶対に「原価」ではないはずです。
自分がそれを集めていて、揃えて、愛でたいという「体験」や「ストーリー」に金を出しているのではないでしょうか。
それは決して人が決めた価値ではなく、自分自身がつくったストーリーの価値なのだと思います。
自発的に、あるものを「好き」になって、それをたくさん「欲しい」と思うその精神は、極めて純度が高い「価値観」を作り出していると思います。
マルセル・デュシャンが示したこととも通じます。
あなたがこの作品を見てどう感じるか、どう価値を見出すかは自由。
あなたが価値があると思えば価値があるし、ないと思えばない。
という、それまでの「こうであれば価値のある芸術である」というイデオロギーから脱却したのです。
作品を見て「こういうメッセージかな?なぜこんなことをするのかな?」という体験やストーリーを我々にもたらしているのです。
ストーリーと体験
昔から、広告業界では「ストーリーテリング」というものが効果が高いと言われています。
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」がなぜベストセラーになったか?
それは本来面白いが難しかった『マネジメント』をストーリーにすることで、読者が擬似的に体験し、自分により引きつけて考えることができるようになったからです。
もっとわかりやすい例があります。日本人のおそらくほぼ全員が読んだことのある、とある「ストーリーテリング」があります。
そう、懐かしき、進研ゼミの勧誘マンガです。
いくら「これくらい効果があります」とか「1日15分です」と説明されてもわからないものが(しかも相手は子供です)、マンガの中で進研ゼミによる成功体験を語ることで、何倍もの訴求力を持ちます。
NHKの「ためしてガッテン」やABC放送の「ビーバップハイヒール」という番組がありますが、これらも必ずドラマを作ります。登場人物に「体験」させることによって、視聴者はただ説明されるよりも内容がよくわかるようになります。
もともと人間はストーリーや体験に価値を見出すと言われています。
ハンドメイドの話に戻ると、ストーリーも何も知らない他人が作った「アクセサリー」には「原価で売って」などと言ってしまう人も、もし自分の娘が作った「アクセサリー」ならそんなことは言えないはずです。
自分一人で家で見る映画には大したお金は払えなくても、かわいい女の子と二人で見にいく映画なら、たとえつまらないとわかっていても二人合わせて5千円くらい(ポップコーン・ドリンク込み)ぽんと出せてしまいます。
屋久島で縄文杉が見れるなら、ジンベエザメと泳げるなら、おばあちゃんが元気なうちにいくおそらく最後になるだろう温泉旅行なら、人は価値を見出すのです。
何をつくればいいのか
なんの話だったかわからなくなってきましたが、僕の仕事はデザイナー業も文筆業も音楽活動も「原価ゼロ」です。
すなわちハナっから「どんな材料を使っていて、どれだけ手間がかかっているか」などという付帯的な要素からは解放されています。
したがってそもそも、値段をいくらにしようが、別に構わないのです。
そこに「マネタイズ」という大きな課題が現れます。
芸術の価値は、決めることができません。わからない人にはわからないし、価値があると思う人にはあります。
そして何度も言うように、芸術を見て、聴いて、「いい」と思えば、「いい」のです。それが人にとってのその作品の「価値」です。
そして人が「ストーリー」に価値を見出すならば、そこに「マネタイズ」のヒントがあるような気がします。
ライブに来てもらってお客さんとお話をしたり、こうやって僕たちの考えていることを文章にして多角的に僕たちの人物像について理解してもらったりしているうちに、僕たちとお客さんとの間に少しずつ関係性を作っていきたいと思っています。
そして願わくば、
あの夜、GEEK! GEEK! GEEK! の「リピート」を聞いて、昔の恋人を思い出した。
そういうストーリーが聞けたら、これ以上「価値」のあることはないと思っています。
なにより「自分にとって価値がある」ものをちゃんと大事に表現していきたいと願っております。