初回から非常に好戦的なタイトルで申し訳ありません。
GEEK! GEEK! GEEK!の「ややこしい思想」担当のマツミヤカズトです。
恐れ入ります。
さて、タイトルの通り、記念すべきコラム第一弾は「歌詞」について普段考えていることをさらけ出したいと思います。
メジャー、インディーズに関わらず無数の楽曲があり、インストでなければ当然歌詞があります。
そんな歌詞を読んで「もったいない!!」と思うことがあまりにも多く、もっと言えば「なんじゃこのクソ歌詞!!」と思うことも多々あります。
もちろん「好み」はあるでしょう。
また「伝えることを目的としない歌詞」というものも当然あります。
メロディに乗せた「音遊び」の歌詞もあれば、ただ「言葉の流れ」だけを重視して、意図的にあまり歌詞に内容を込めない場合もあります。
今回の話は何かを伝えようとしているのに伝わらない「ありきたりな歌詞」に対する提言です。
「一概に言えない」と思われるかもしれません。
しかし今回のお話はそーいう話より、もっと手前の話です。一概に「言える」話です。「歌詞」というよりは「言語芸術」の話です。
めんどくさい話ですが、興味のある方はぜひ読んでいただけたらと思います。
何のために言葉を紡ぐのか
太古の昔より、人類は数多の「言語芸術」を生み出してきました。詩、句、物語、戯曲など、その種類は数え切れません。
果たして、芸術は何のためにあるのでしょうか。
その目的は何なのでしょうか?
ごく簡単に言ってしまえば、それは「共感」です。
もう少し詳しくいうと「意識の外にある部分で『わかる』」ことです。
単純な例で言えば、「あるあるネタ」というのも一種の『共感詩』と言えると思います。
おまえんちの天井、低くない?
ピカソより普通にラッセンが好き
同じ経験をしたことがあるわけでもないのに、なぜかわからないけれど、『わかる』。
意識の外で『共感』する。
笑いが起こる。笑いが起こることも立派な芸術的反応です。
泣く、笑う、不快になる、怖くなる、気持ちよくなる、、どれでもいいのです。
あなたが作った作品によって、鑑賞者に何らかの感情の変化をもたらすことができれば、それは「芸術」として立派に、本来の目的を果たしています。
これは言語芸術に限ったことではなく、すべての芸術に共通することです。
とにかく作品を鑑賞して「理屈ではない何か」を共有することが芸術の持つ役割なのです。
なぜピカソの絵が、ロダンの彫刻が、中原中也の詩が心を打つのか、いくら言葉を尽くしても、作品本来の価値の核の部分を説明することはできません。
時間をかけて作られているから? 死ぬ直前に作られた作品だから? むずかしい製法だから?
それは「補足情報」です。
「この作品、なんかいいな」「なんとなく怖いな」と思えば、それが正解です。
多くの人に「なんかすげえ」と思わせる何かがあるからピカソの絵は「すげえ」のです。
この話を詳しくしだすと、芸術論の地獄に迷い込みますので興味のある人はこの辺でも読んでください。
僕はだいぶこの地獄をさまよいました。死ぬかと思いました。
「あるあるネタ」で知られるレイザーラモンRGという芸人さんは、かつて立派な言葉を残しています。
「人生はあるあるである」
あるラジオ番組では「ミスチルはいわば、恋愛あるあるを歌っているんです」と語っていました。
まぁ、これは余談です。
共感とありきたりは違う
さて、それではなぜ、ありきたりな歌詞を書いてはいけないのでしょうか?
芸術が「共感」を目的とした、いわば「あるある」であるならば、どんどん「ありきたり」を綴った方がいいのではないでしょうか?
それが、そうでもないのです。
まず、「ありきたりな表現」と「平易な言葉」とは全く違います。「平易な言葉を使う」ことに関しては全く否定しません。
私が否定しているのは「ありきたりな表現」です。
あなたは果たして、「愛してる」という言葉を、使いこなせるでしょうか?日本人の?あなたが?
「会いたくて会いたくて震え」たことが本当にありますか?覚せい剤やってませんか?
「瞳を閉じて、君を描くよ、それだけでいい」と、思ったことがありますか? 瞳って閉じられませんよね?まぶたですよね?
「果てしない あの雲の彼方へ私をつれていってその手を 離さないでね」ってやかましわ、中学生四人組コラ。
すべてありきたりな「借り物の言葉」ではないでしょうか。
果たしてここから、あなたはどれくらいの「共感」ができるでしょうか。
一方で、平易な言葉を駆使して、独自の表現を紡ぎ出す天才もいます。
美人じゃない 魔法もない バカな君が好きさ
途中から 変わっても 全て許してやろう
という歌詞からは、言葉では言い尽くせないほどの愛しさが溢れてこないでしょうか。情景描写がなくても、この男女の関係性が立体的に見えてきます。時には喧嘩をするけれど、長い年月を全て含めてOKにしてしまえるほど好きだ、という男らしさと
「許してやろう」とあえて上から目線の言い方をすることで生まれるちょっとした虚勢と不安感。
バスの揺れ方で人生の意味がわかった日曜日
もう脳内には、ある晴れた日曜日の午後、バスに乗ってどこか(おそらくそう遠くはないところ)へ行く青年がふと何か大切なことに気づいたような(気になっている)情景が浮かんでいるのではないでしょうか。
でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ
実は隣にかわいい女の子がいたことがここでわかります。「でもさ」とフランクに語り始め、簡単に「運命の人だから」と言ってしまえる浅はかさ、若さ。
「強く手を握る」不安と決意。
「借り物の言葉」と「あなたの言葉」
問題なのは「愛してる」で片付けてしまうことによって切り捨てられてしまう、あなたが伝えたいはずの複雑で曖昧な感情です。
「果てしない あの雲の彼方へ」で、置いていかれる、鑑賞者の気持ちです。
なんですか?雲の彼方って?
そこにどういう状況、関係があって、どんなことが起こっているのか。
「言葉」という神様からの贈り物とも言える魔法のツールを使えば、その組み合わせ次第で無限のバリエーションを作ることができるはずなのです。
「共感」ということは、言い換えれば「他者の感情を共有する」ことです。
すなわち「表現者」と「鑑賞者」が感情・情景を共有することです。そうしてやっと、ほろりとひとつ涙が流れるのです。
難しい・特殊な言葉を使うべきだと言っているのではありません。
「さぁ、がんばろうぜ」
たったこれだけの言葉でも、宮本浩次さん(エレファントカシマシ)の気持ちは伝わってきます。
本当に彼がそう思っているからこそ「よし、がんばろうよ」でも「ほら、がんばってね」でもなく、あのぶっきらぼうな歌い方でがなるように「さぁ、がんばろうぜ」と何のギミックもなく言われることで、この表現は逆に鑑賞者の心に届く抽象性を獲得しています。
「そして最後のデザートを笑って食べる君のそばに僕はいたい」
好きとも、愛してるとも言わず、優しい眼差しで相手を慈しむ深みのある感情を見事に表現しきっています。
個人的に、Mr.Childrenの歌詞の中でいちばん好きな箇所です。
あなたが感じたことは、あなたにしか表現できない
こう考えると、「共感」という目的において、「ありきたりな表現」ではなく「自分自身の視点による切り取り」の方がいかに重要であるかがわかってきます。
自分というフィルターを通していない歌詞には、はっきり言って、何の意味も、価値もありません。
日本語として間違っていようが、稚拙だろうが、嘘だろうが
あなたが抱いた複雑な感情や、美しい情景を、真摯に言葉を尽くし、あるいはあえて省略して磨き抜いたのちに、やっとそこに「共感」の手がかりが芽生えるのです。
「きれいだな」「愛しいな」「寂しいな」「会いたくて会いたくて震えるわ」とあなたが感じたとして、それはそんな言葉で表現できるような単純な感情なのでしょうか?
あなたにもたらされたオリジナルの感情を、あなた自身の視点で切り取り、あなた自身の言葉で伝えるべきです。
その着眼点や切り取り方が独特な人のこと、そして多くの人にそのオリジナルの感情を正確に共有できる人のことを「天才」と呼ぶのです。
古池や蛙飛び込む水の音
どこにも「静かな」という表現はありません。しかし、どこかの美しい林の中の池に、ポチャンと蛙が一匹飛び込んだ音が響く静謐な情景がありありと浮かんできます。
この世に「言語」というものが生まれて以来数千年の間、世界中の芸術家たちが、手を替え品を替え、この「共感」を求めて試行錯誤を繰り返してきました。
それを組み合わせて、ありきたりな、どこかで聞いたような、歌詞で「帳尻合わせ」をすることは、盗人と同じです。
そしてその盗人は、そこに自分の感情を乗せることなどできるはずがありません。「盗んできた言葉」なのですから。
これほど陳腐なことがあるでしょうか?
さぁ、がんばろうぜ。
自分にしか書けない歌詞を書こうぜ。